静寂であること

ヨガをする、瞑想もする。

そんな自分は、「何故、これらをしてるのだろう?」と自分に問いかけてみました。

自分を知りたいのだ。

そんな答えが心の中に浮かびました。

自分の生き方を大きく意識し始めたのは、英語に苦労したハイスクール時代。自分の持っているものと、持っていないもの、出来ないものがはっきり見えたと同時に、自分が置かれた境遇に対してどう適用していったらいいのだろう?ともがき始めたからです。

振り返ってみると、40歳を過ぎるまでは、色々なものを手に入れることに注力していたと思います。不足しているものを満たすことに力を注ぎました。足りないスキルを磨いたり、出来ないことを出来るようにしたり、向上心を全面に打ち出して進んできました。

でも、40代の半ばで転機が訪れます。今度は、削ぎ落とすフェーズに移行したのです。
この先、50代、60代と進むために、まず削ぎ落とすことが必須事項となりました。削ぎ落として、手放すことなしには、この先の成長も前進もない!というところに来たようです。

しかし、「削ぎ落とすのだよ。」と一言で言っても、実行するのは難しいわけです。そもそも、削ぎ落とすって何だろう?とか、どうやればいいんだろう?という疑問が湧きますし、手放すことで自分が自分でなくなってしまう感覚もあるわけです。

まず、何をすればいいか。

それは、

静寂であること

これしかないな、という答えに辿り着きました。

静かになることは、手放すことを支えるからです。

自分の軌跡を辿ってみると、ヨガに出会い、陰ヨガを追求して、そして瞑想に辿り着いてきました。やはり、静けさとか、静寂さといった言葉がキーワードになるのかなと思います。人生の中で自我なく自然に出会うものは、出会うべくして出会っているというのが私の持論です。ヨガに出会った18〜20年前から、私は静寂さが人生を支える大切な要素であることに何となく気がついていたのかもしれません。

今のところ、真の静寂さを持つには、瞑想しかないと思っています。心の静けさに向き合わない限り、完全なる静寂さは訪れないからです。私は、陰ヨガという静かなヨガの土台があったことも助けとなり、気持ちの葛藤はそれほどなく瞑想へと進みましたが、瞑想はやればやるほどさらに道が開けてきて可能性が広がります。

静寂になればなるほどわかってくることがあります。それは言葉で説明しがたい感覚的で経験的なものです。静寂さを身につけないと感じることが出来ない領域のものです。

マインドフルでいて、いかに観察できるようになるか。

これから50代を生きる私の新たなチャレンジのようです。

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